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随想――京都における地蔵菩薩信仰 (1)

   ――町衆の心、健在なり

村 雀   渉

 

1.街角の地蔵堂

 京都の市街地を歩くと、路地の入り口、店舗や民家の狭い間隙、橋のたもと等に小さいお堂があることに気がつく。古い物は木造だが、コンクリート造りや、新しいものには鉄板溶接造りの物もある。お堂の扁額には「地蔵菩薩」「延命地蔵尊」などとあり、時折 「大日如来」などのお堂もあるが、大多数は地蔵菩薩が祭られている。

 感心するのはどのお堂も日中は扉が開かれており、小さな花立には新鮮な生花が、茶器のあるお堂には煎茶が満たされ、線香立てにも焼香の余香が漂っているなど、毎日礼拝が行なわれていることを示している事である。

 お堂の中は石仏が大半である。京都は町中には露座の石仏はあまり見られず、小さくてもお堂に収まっている事が多い。京都の石仏は中世以後造仏が盛んになるが、石材は京都市街地の北、白河地区より切り出される「白河石」という、柔らかく加工は容易だが風化しやすい花崗岩が多く、面相・衣紋・蓮台などの彫刻は風化してほとんど残っていない。中には拝見すると頭部に螺髪や宝冠の痕跡があり、座像で印相も如来像としか思えない物もあるが、それらも地蔵として祭られている。

 

2.地蔵菩薩の信仰

 地蔵菩薩は梵語Ksitigarbhaといい、古代インドの大地の神が仏教に帰依して菩薩になったものと考証されている。中国仏教を経て日本では浄土信仰とともに、仏教を学び修行する機会のないまま死んだ一般庶民、信仰告白の機会を得ず死んだ胎児・幼児の魂を地獄から救う菩薩として、錫杖・宝珠を持ち比丘(在俗の仏教修行者)の衣の姿で表わされる。閻魔大王の本地仏、六道を救済する六地蔵。さらに信仰の広がりから現世利益を祈る仏ともされた。

 仏教説話で地蔵菩薩の霊験が多数見られるのは平安時代の『今昔物語』からであると言う。

 奈良市の仏教遺跡見学の時、現地の石造文化財に詳しい方から、「奈良には一つの石碑に阿弥陀如来像と地蔵菩薩像を並べて彫刻した物がある。本来仏教にこんな儀軌はないのだが、現世のご利益は地蔵様に、死後の成仏は阿弥陀様に御願い、という民間信仰による物」だと聞いたことがある。

 

3.膨大な造仏

 中世に政治の中心地、大商工業都市として経済力の高かった京都とその周辺にはおびただしい数の石仏が造られたらしい。寺院に納められた石仏には嵯峨野の化野(あだしの)念仏寺の膨大な石仏群が知られる。ところが、中世末の城郭石垣の建設では手頃な大きさの石材として、また武家政権の寺院勢力への対抗意識もあったものだろうか、石仏が利用されている。織田信長の滋賀県安土城、京都の旧二条城、豊臣氏の奈良県大和郡山城などが有名で、京都地下鉄の工事中に発見された旧二条城の石垣からは特に多くの石仏、石塔の利用が見られた。その一部は京都御苑や現二条城庭園に移転され、石仏破片は竹林公園などに移転されている。

 旧二条城は「武家御城」とも呼ばれ、永禄八年(1565)に暗殺された足利将軍義輝の邸宅跡に同十二年、織田信長が擁立した足利将軍義昭のために築いた城である。現在の二条城の東北、平安女学院付近にあった。宣教師フロイスの記録にも寺院の石仏が破壊され石垣に使われた事が見える。この膨大な石仏石塔を僧侶や信徒の町衆の目の前で「見よ、仏罰などあるものか」と破壊するだけでも大仕事だったであろう。

 

4.地蔵盆

 宗教都市の京都は各地区の神社仏閣で「京の百祭」と言われるほど年中行事に富んでいるが、地蔵菩薩信仰の行事には「地蔵盆」がある。旧盆の後の週末に、町内の地蔵堂前に子供が集まり、地蔵堂の掃除、地蔵像の化粧などを行い、僧侶による読経・子供向け法話のあとお菓子などをもらって解散する。児童生徒には夏休みの終わりを告げる行事でもあった。地蔵堂のない地域では僧侶が自坊から持参した地蔵仏を用いて仏事を行なう例もあった。児童数の減少で次第に行なわれなくなっているそうだが。

 不思議なのは「お地蔵様の化粧」で、風化した石仏に絵具で極彩色の衣を描き、面相は白粉を塗り目・鼻・口を描く。どこも子供の拙い絵付けであるが、花街などでは仏画や織物下絵の素養のある人が描いたのか西陣織・友禅染風の絢爛たる衣紋を描いたものもある。地蔵盆の後にも化粧を残したままの地蔵像もある。「児童による化粧地蔵」は京都の他京丹後、若狭などの地方にも見られ、近世日本海海運の影響か、日本海沿岸の各地にも点在するらしい。

 

5.壬生寺延命地蔵尊

 寺院の多い京都では地蔵菩薩を本尊とする寺院も多いが、一般市民によく知られているのは中京区の壬生寺(みぶでら)である。開山は平安時代であるが度々焼亡と再建をくりかえし、特に中世の円覚上人の再建後は念仏宗の本尊延命地蔵が都人の深い信仰を集め、念仏普及のため始めた壬生大念仏狂言でも有名となった。本尊延命地蔵像は鎌倉時代の作で、江戸時代の大火でも焼け残ったが昭和37年の火災で焼失。本堂再建後は奈良唐招提寺より迎えた地蔵菩薩像を本尊としている。本堂内陣は時折の非公開文化財特別公開の折にしか拝観できないが、延命地蔵尊立像を中尊に、むかって右に掌善童子、左に掌悪童子(ともに復元製作)を従えた三尊である。

 壬生寺は無形文化財の壬生狂言が有名であるが幕末に新選組の屯所がおかれた事でも知られ、慰霊碑や近藤勇像なども境内にある。

 

6.戦勝祈願の勝軍地蔵

 地蔵菩薩の霊験は、事故・災害からの救命、健康長寿、立身出世、商売繁盛、子孫繁栄など様々であるが、天下麻の如く乱れた室町・戦国時代には合戦の戦勝祈願にも霊験があった。京都東山の清水寺(きよみずでら)千手観音菩薩の脇侍は『勝敵毘沙門天』と、甲冑をまとい武器を執る『勝軍地蔵菩薩』であり、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の折霊験があったと伝える。また西の愛宕山にある愛宕神社の神、愛宕大権現は本地仏が地蔵菩薩であるが、やはり甲冑をつけ白馬に騎乗する『愛宕勝軍地蔵』で、これも軍神として戦勝祈願に用いられた。軍神なので脇侍も二童子でなく、不動明王と毘沙門天である。室町将軍の信仰も篤く、足利尊氏の念持仏は勝軍地蔵であった。足利将軍歴代の像がある等持院(とうじいん)に残る「足利尊氏の念持仏」は普通の地蔵菩薩像であるが、廬山寺(ろさんじ)蔵の「伝・明智光秀念持仏」も普通の地蔵菩薩であるのに、脇侍が不動・毘沙門であったから勝軍地蔵なのであろう。

 明治から太平洋戦争にかけても勝軍地蔵石仏が製作されている。戦後は鉾を錫杖に変え、胸もとの鎧をよだれかけで隠して普通のお地蔵さんになっているのがある。

 

7.賽の河原の救済者

 地蔵菩薩信仰の中に「水子供養」がある。死産、流産、間引き、中絶などで失われた子供、事故や病気で早世した幼児は仏法に触れることも信仰告白も出来ないので地獄の入り口の「賽の河原」で鬼に妨害されながら供養のため河原石で石塔を積む。救済され極楽に行くためには親の供養により地蔵菩薩の力を頼むしかない、という物である。この供養の時は「これはこの世の事ならず・・・賽の河原の物語・・・」と『地蔵和賛』が唱えられる。

 京都の寺院でも水子供養を行なう寺には地蔵和賛を配布している所が多いが、賽の河原が「西院の河原」となっている。京都市で西院というと右京西大路四条の付近で阪急西院駅があり、淳和天皇の離宮にちなむ地名だが、なぜここが賽の河原と重なるのだろうか。

 平安京の左京は山に近く鴨川も遷都直後は穏やかであったが、右京には紙屋川など暴れ川が多く、まもなく荒廃する。近代に天神川を開削するまでは洪水の多い地であった。西院付近も地蔵信仰が盛んだった時代は荒れ果てた河原だった時代だったのだろう。ここにはいま浄土宗高山寺があるが、江戸時代の地蔵菩薩の大きな像がある。

 
8.地蔵菩薩像のさまざま

 地蔵菩薩像といえば僧侶の姿で右手に錫杖、左手に宝珠を持つのが普通であるが、仏教美術史では、「両手に何も持たない『空手地蔵』、宝珠のみを持つ『宝珠地蔵』、宝珠と錫杖を持つ『宝珠錫杖地蔵』、宝珠と錫杖を持ち蓮華座に半跏して座す『延命地蔵』などがある」とする(石田茂作『仏教美術の基本』)。

 空手と宝珠は古い物のみ、宝珠錫杖と延命は藤原時代以後、とされる。また奈良時代以前の伝・地蔵菩薩像は僧形八幡像のごとく、仏教に帰依して剃髪、僧形となった日本の神像ではないかとする新説もあるという。

 興味深いのは、勝軍地蔵や掌善・掌悪二童子、阿弥陀・地蔵並列の石仏などは専門書にもあまり解説されていない事である。民間信仰で変容した仏は研究対象外なのであろうか。

 

9.六地蔵

 寺院境内や墓地の入り口に六体の地蔵菩薩石仏が並んでいる事がある。 独立した六体の地蔵も、六角柱の各面に一体づつ彫刻したものもある。

 六道輪廻の業により「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の六道の世界を巡る亡者の魂を救う「大定智悲・大徳清浄・大光明・清浄無垢・大清浄・大堅固」の六体(名前や持物は異説が多い)の地蔵菩薩の分身である。それぞれが六道で布教・教化して亡者を極楽に導くのだそうである。なぜかインド、中国より日本で盛んになり、六地蔵巡りなどもある。京都地下鉄の「六地蔵駅」は近くの京都六地蔵の一つ、「大善寺六地蔵さん」にちなむ駅名である。

 民話の「石地蔵」は「六つの石地蔵」に雪の中売れ残りの五つの笠と自分の笠(手ぬぐいとも)を喜捨した老夫婦が地蔵の恩恵を受ける話である。これも六地蔵であろう。

 

10.京都のお地蔵さん

 大宗教都市で諸仏教の本山も多い京都は意外と一般市民~町衆には辻のお地蔵さんへの信仰が厚いらしいと気がついた。千年の帝都、「この前の戦争」が応仁の乱(1467)という格式の高い町、旧暦と年中行事、禁忌などで束縛され、茶会の時も「我が仏 となりの宝 婿舅(むこしゅうと) 天下の戦(いくさ) 人の善し悪し」は口に出すな、の世界、いつ「天文法華の乱(1536)」のような大宗教戦争に巻き込まれるか判らない。

 そうなった時には、「うちの仏さんは無派閥のお地蔵はんで」と逃れる知恵かも知れない。現世利益をしっかり頂き、最後の時は菩提寺の宗旨に従って・・・、も古代からの生きる知恵だろうか。

 京町雀ならぬ田舎の村雀のお地蔵さん信心談義。知識不足と言葉の足りないところはご看過の程を。

(第1回 ここまで)